昭和46年1月3日 朝の御理解
中村良一
御神誡
一 天の恩を知りて、地の恩を知らぬこと。
確かに、色々な信心、色々な宗教がありますけれども、もう、金光大神、金光教祖ほど、地の恩を説かれた方はなかろうと思われます。ご自身が土のこと、言うなら、ご生活の中から、大地に対する御思いと言うものが、誰よりも深かったと、まぁこうあられたという事を感じます。金光様のご信心は、だから、土のような信心だとも言われるわけです。ところが、天の恩にしろ、地の恩にしろ、まぁ色々と、その恩恵について、色々に説かれますけれども。それを、実感としてですね、本当にその、ひとすくいの土が拝めれると言う心ですか。なかなか、頂けるものではありません。
最近、大きなおかげを頂くと、おかげを頂かなければならんと言う。それには、やはり、その、いうなら、天地ほど、大きいものはなく、その天地の御恩徳を感知すると、ね。その天地の御恩徳を、御恩徳として、分からせてもらうと。そこから、本当の意味においての、神恩報謝の生活が出来ると、ね。天地の大恩が分かるところから、私は、大きなおかげの受けものという事は、出来てくるのだというように、まぁ頂くわけですけれど。その天地の御恩徳とこう言いますが、その天地の徳と言うか、いわゆるその、天地の徳を、この現すと言うこと。それは、おかげを受けると言うこと、ね。天地金乃神と、こう天地金乃神という風に、その、天地の神とは言わずに、天地金の神とこう言われる。これは、私は、そのおかげを受けるという事だと思います。おかげを受けて、初めて、御恩徳に触れることも出来るし、その御恩徳を、また、現すことも出来る。だから、おかげを頂かなければ、本当は、天の恩を知り、地の恩を知らぬことと仰せられますけれども、本当な、理屈では分かるのではなくて、おかげを頂いて、初めて分かるのが、天地の大恩だと思うです。
理屈の、例えば、上で分かって、天恩、地恩という事に対して、例えばその、有難く思うておると、感謝を捧げるというてもです。これがその、なんと申しますかね。本当におかげを受ける。なるほど、お日照りも有難いし、または、お湿りも有難いのだと。ね。または、自分の都合の良いことだけではなくて、都合の悪いことも、また有難いのだと、と言うことを、分からせて頂いても、やはり、都合の悪いことは悪い事。都合の良いことは、都合の良い事と思うておったんではです。天地の恩を分かったとは言えない。いわゆる、天地のなかにある働きというものが、言うならば、降るときもありゃ、照る時もある。それで、自分の都合が良い時に、まぁ、降ったといや、有難いけれど。いわば、寒天続きでなら、植えたものが枯れるいった様な事になってくるとですね。まぁ言うならば、天をうらむような心。ね。これでは、天恩、地恩が分かっておるとは言えない。やはり、お日照りがめでたいなら、また、お湿りも有難いというようにです。分かって初めて、天地の恩が分かったという事が言えるのです。ですから、天地の恩を受けると言うことは、やはり、そこからですね、本当に、おかげを頂かなければ、天地の、いわば、大恩という事は分からん。ね。自分の都合の悪いこと、いわば、苦しいこと、ね。または悲しいことといった様な事に、出会った時に、その事がです。有難いと分らせて貰い、気付かせて貰い。それは、有難いと実感出来るという事は、おかげの体験が積まれなければね、おかげにならんのです。その体験が、積み上げられるところから、天地の大恩を分かってくるのです。実感として分かってくるのです。
昨夜も、吉井の熊谷さんが、朝昼晩お参りになります。夜の御祈念も、さっき、何時もの、バスの時間に、停留所に行かれたところが、今日は、ちょこっとばっかり、早う行ったと、こう言うのです。早う来てるわけです。それで、そん時に、はぁその事も、神様の、こちらが、いわば、遅くなして乗り損なうたと言うならね、まぁ、こっちが悪かったという事になるけれども。ちゃんと時間に来ておるのに、バスは行きよったとこう言う。そこで、有難いと思うけれども、思えない。ね。やっぱり、不足の心が半分、また、神様の、何かご都合じゃろうと思う心が半分。結局、有難く思えなかったとこう言う。それから、今度は、次のバスが来るのを待って、来らせて頂いた。ところが、あんまり、前のが、その、早く来たけれど、後からの分に乗らせて頂いたところがです。もう、それこそ、合楽まで直行だったと言う。誰も、乗る人もなからなければ、その、降りる人もない。合楽で、三人降りただけである。ですから、何時もの時間よりも、ちょっと早く着いたち言う。前のバスは、そこで止まり、ここで止まりして来とるから、帰った、私共のバスが早かったと言うのである。そして、着いてから、あの本当に、神様の働きに間違いがないと分かるとこう言うのである。ちゃんと、やっぱり、御祈念に間に合われて見えておられる。ね。
神様のその、お計らいと言うか、おかげと言うか。こちらが、それだけ、一生懸命、努めておればです、そこにはっきりと、おかげを見せてくださる。けれども、やはり、乗り遅れたという事がです。しもうたとこう思う。こちらは、当たり前の時間に来ておるのに、と言うて、自動車を、言うなら、恨みたいような心持と、そら神様のご都合であろうと言う思いと、二つにある。ね。だから、そういう、これはね、実は、些細な事なんですけれども、これは、熊谷さんの夕べの、夜の御祈念に参ってからの実感なんです。ですから、乗り遅れたと言うこともおかげだという事です。ね。次のバスに乗らせて頂いたと言うこともおかげである。だから、私共がね、その体験を積んだ上にも積ませて頂いてから、初めて、おかげが頂かれる。ね。このように間違いのないおかげが頂けれる神様だから、例えば、ほんなら、自分の思うようにならないからと言うてです、ね。思うようにならなかっても、それがおかげであるという事が分かる。
おかげを頂かなければ、私は、いかに天の恩を説かれても、地の恩を教えて貰うても、ただ、なるほど、そうだなぁと分かるだけで、感謝しておるといったような感謝では、いわば、本当の天地の大恩が分かったとは言えない。ね。そこでです、何ほど人に悪いことをせぬ、正直者でも、人が良いのと、神に信心して、おかげを受けるのは別ものじゃと。二十七節にありますがね。神信心して、おかげを請けると言うことはね。だから、いかに天地の大恩を知っておる。天地の大恩に感謝しながら生活しておると言うてもです。ね。信心がなかったら、そら知っておるというだけで、知らんよりも良かろうけれども、いうなら、天地の大恩に、いわば、感謝して生活をすると。ね。金光様のご信心はね、その辺からが違うてくると思う。
金光大神の、ね。例えば、それは、昨夜も、青年会の御本部参拝を帰りの、私と行っておられた方、五六人と、コタツの間で、色んなお話をさせて頂いた中にです。私が、お商売をさせて頂いておる頃に、いわゆる、やみ商売の時分に、ね。もう、実に間違いの無い働きを頂いた、二三の例をお話したことでした。
大阪に仕入れにやらせて頂いた。それが、汽車の中で見つかって、没収された。ね。ところが、一年後に、その、門司の警察署から、念繰りの手紙が来た。是非、ご出頭願いたいという。その日が、ちょうど、小倉の大祭の日であった。はぁ、こら何か、おかげだなと直感した。やらせて頂いたら、私が、没収されとった品物が、その物を入れてある倉庫に、泥棒が入った。で、その商品の一部を盗まれておる。だから、向こうにも出されん、こっちにも返されんと言うことになった、警察自体が。だからまぁ、何とも言わずに、これを持って帰ってくれんかと。持って帰る時には、やみ製品でしたけれども、証明まで付けて貰うて帰ってきた。もちろん、一年後には、十倍になっておった、その品物が。と言った様な話です。ね。まぁ考えてみると、本当に、あの、やみ商売と言う商売は、本当にもう、詐欺一歩手前の商売もして来ました。人の良いのと悪いのと、信心しておかげを受けるというのは別ものなんだ、と言うて、福岡の、今でも、やっぱり、大商社があります。その例を引いて、どこどこに、何々を売った時にはこうやった。どこどこに、何を売って、儲かったのは、こう言うことであったと言うて話した。もうそれがもう、実に間違いのない事であった。神様はね、この様な事にでも、このようにおかげ下さる。
まぁ一例を、それを話しますとね。タカヤさんという、博多に、大きな用品の問屋さん、おろし小売なさっておられる。当時、やみ市場に参りましたらね。大阪の商人が、あの、女性のストッキングを、見本を持って売りに来た。絹のストッキング。ところが、それが、ちょこっとばっかり短い。だから、どこへ持って行っても売れぬ、品物は上等なんだけれども。それで、私が、売ってやろうと。こちらに資本がないのですから、二の足の褌で、相撲をとるような商売ばっかりしてるわけです。もう人が売りきらん、もう売れんと言った様なものを探して回って、売るわけなんです。だから、まとものことじゃ売れはせん。その商品を買ってやる、タカヤさんとこに、仕入れ部の方へ。ちょうどその時、たまたま、大阪から、そのストッキングを卸に来ておる商人が、そこにあった。その、いろいろと話をしている、そこへ、支配人が入ってきてから、私の品物を見てから、こら上等だと、買うたという事になった。なら、買うた売ったで、すぐ商いが出来た。ね。ちょうど、師走のことでしたから、元日に、店の方を連れて、年始の挨拶に行ったら、もう、そこの支配人が怒ること、怒ること、ばさらか。もうあんたばっかりは見損のうた。どげなこっでんするち言うて言うけん、どうしたかち言うたところが、あらあんた、こげな、短いじゃないかと。そうですよち、私が。けれども、自分が、商品を見てから、買うち言うたじゃないか。という訳なんですよ。ね。後から聞いてみたらね、その大阪のほうから売りに来ておる方の商人を、ぱっと部屋に入ってきた品物が見とったわけです。私の方は、とても見てなかった。向こうのとは上等なんです。ね。それが、例えば、何割も安いもんですから、すぐ買うた。私の方のと取り違えて、向こうを見てるわけなんです。かんかんに、正月早々怒るから、それでその、どうしたか。それであの、ほんなら、私が引き取ろうと言うた。もう私が、あっちこっち、支店に、ばーっと送ってしもうたことを知ってたんです。だから、私が、引き取るち言うた。引き取るち言うちから、そげんもう、あっちこっち送っとるもんばち言うた。なしかち思うかち、売ったっじゃから、あんたんとこでも、損した訳じゃないから良いじゃないかと言う様な事でした。もう、本当にね、その辺のお繰り合わせと言うのは、まぁ、皆さんが聞いて、それを真似なさってはいけませんけれどもです。人の良いのと悪いのと、信心しておかげを受けるのは別ものじゃという事です。もう、あの時分の闇商売は、みんなそうでした。
それがもう、何時もその、間違いのないおかげであった。私は、あの時分に、ガーゼのタオルとか、ハンカチとかという、九州には言ったのは、殆んど、私が手をくぐっとったんですよ。それを、久留米に売らせて頂いたのがばれて、久留米の検事局に呼ばれた。そん時も、ちょうど、久留米の御大祭の日であった。もちろん、品物は、みんな取られとった。ね。ところが、何とね、その検事さんがね、私が知っておる、昔、久留米に居った時分に知っておる金光様のご信者さんの息子さんじゃった。私がここに、洋服の、ここのところに、御神米を、何時も入れておった。それを、向こうが気が付いてですね、その、信心の話になった。もちろん、その日はちょうど、人権尊重の日だったですからね。もう実に、お茶どんが出てから、丁重だった。それまで、何遍も、出頭命じられたが、私が行かなかった。ほうからかしとった。ね。そして、おかげを頂いてから、これを、全部かやすなら、どうするかと言うから、私が、その事の、ね。まぁこれから、十ダースぐらい分は、お供えするだろう。後はまぁ、折角、あーた、こうして買うとるもんだから、売らしてもらわにゃ仕方がないですよち言うた。まぁそれを、まぁ、それこそもう、本当に、あろう筈のこと、ないこと。私はあの、福岡の進駐軍の裁判にもかかろうとしたけれど、私の、その書類が、全部、なくなっておって、いわば、沖縄に、あの時分は、流された、流されたというが、やられましたが、それを、おかげ頂いたと言った様な事もあった。その時分にね、ですから、本当に、まぁ、そんな話を、昨日、させて頂いたのですけれど。そういう中にですね、その、さっきの、熊谷さんじゃないけれども、一つ、線が通っておった。時間に遅れていなかった。それで、遅れておった。
私は、その当時の、全然、(むしほんけ?)福岡へ行っておりますから、ね。それでも、やはり、人の褌で相撲をとるような商いですね。当時のやみ商売と言うのは。ね。人が売りきらんである、売れんで困っておるというようなものを、商品を買い取っては、売るというような商売なんですから。ね。けれどもね、私は、毎月、自分の最低の生活費と、店の方達が三人とおりましたが、三人の方に、給料を支払うてです。そのあまりの給料は、全部、お供えでした。ね。それはね、私が、神様の間違いなさを、本当に知りたいという一念が、そうさせてんです。ね。
例えば、人の命と言うものがです。神様が作りなさったもの。だから、どういう、医者が見離した病人であっても、助けてくださることが出来るのが、天地の親神様だと、お話には聞いておった。それを、実証していかなければ、承知がいかなかった。その一つの例が、あの、中島の上滝さんですよね。俗にいう結核で、もう時間の問題だという人が、ね。私の、一心の願いで助かった。私は、その当時は、もう神様に、色々お知らせを頂きよったが、ね。もう、腐ってしまった葡萄のような、あの葡萄を頂いた。だからもう、こら、ちり箱に、いわゆる、もう死ぬより他にないなぁと、私は思うた。そしたらね、その葡萄を、今度は、かめの中にこうやって、壷のなかに入れるところを頂いた。ははぁ、これで、神様は、ぶどう酒作れと仰るなぁと思うたからね。あの、それに水を入れて、蓋をして、それが発酵するのを待たせて頂いたら、こりゃ、腐ったも同然、ぶどう酒が出来ると思うたから、その事を、もうしきりに、上滝さんに説いた。普通から言うたら、もうこりゃ、助かりはないけれども。ここに、金光大神のお取次ぎを頂いて、その腐った葡萄が、壷の中に入れられて、蓋をして、金光様、金光様と念じていきゃ発酵してくる。そこんところを、ずーっと、押さえていきゃ、必ず、おかげになる。ね。本当におかげを頂いた。
例えば、いうなら、私の商売の場合でもです。それこそ、きわどい商売をさせて頂いておったけれどもです。その願いと言うものがね。百万円当たったなら、十万か二十万か、こっちに貰うちから、後は、お供えすると言うのじゃなかった。当たったら、全部お供えするという腹なんです。ね。お商売をさせて頂いて、福岡に出らせて頂いた。全然、無資本でいっておるものが、毎月毎月、生きた、そういう神様の働きを感じさせてもらい、頂かせて貰うてです。どういう中にでも、こういうおかげは受けられるという事実をね、積み上げていった。ね。熊谷さんと、その話を話したことです。ね。怠けておったわけじゃない。何時もの時間に、ぴちっと行ったと。私は、自分が、ね。我欲をしようと思う、儲けだして、どうのこうのと思うのじゃない、ね。私の、しておる商売から、利益が上がったら、その利益の上がった、その全部が、ね。神様へのお供えだ。だから、毎月、それが出来ん筈はないと。その時分に、考えてみると、慢心が出来よった。一年後には、それが、全部、右と願えば左、左と願えば右といった様な事にならせて頂いた時には、もう、神様の、あれほどしの間違いのない神様である事だからです。ね。この事も、間違いがあるはずはないと、頂ける様になっとった。だから、その事も有難かった。そういう難儀な中にあって、本当に、そげん有難かつですかと言うほどに有難かった。だから、一つね、本当に、神様を分かり、頂かなければ、それにはね、ただね、おかげを頂くと言うても、神様の心に、きちっと、そこに叶う。そういう、例えば、言うなら、そういうきわどい商売でもです。今から考えたら、本当に、脇の下から汗の出るような商売させて頂いておる。ね。昨日のお話の中にもあったように、八反、生地を持って行ってから、博多織りで売ってるんですからねぇ。ね。本当の商売人が、それを、そうだと思うて買うとる、と言った様なね。まぁ、おかげを頂いた。けれども、ね。それこそ、泥棒は、それとひどわせずに良く似た様なところがありますように、けれどもです、信心して、おかげを受けるという事は、そういう中にでも、神様がおかげを下さる事が出来るという事です。下さるんだという事。ね。まぁ、そういう例を申しますとね。私の商売上のお話は、キリがありません。もう、実に、それはもう、間違いのない事でした。
私が、博多へ参りました日は、もうその晩、福岡の教会で過ごさせてもらった。あくる朝は、教会から、そうですね、あそこは、何とか町ですか。高橋さん、覚えとりませんか。(みたけ九州の産としては?)それをしたがって、始めての、私が会うたのにですね。私が、歩いて、福岡の町を、今日から回って、商売の、そのあれを探そうと言うて、初めて入り込んで話したらですね、たまがってしもうてから、歩いてやることが、とても出来るもんかい、この広さを。とにかく、小屋の中に自転車が入っとるけんで、あれを出してきなさいち言う。なしですかち言うたら、あんたに貸しましょうち言うた。まぁだ、新しい、宮田製のアサヒと言う自転車じゃった。ほんなら、五日間貸して下さいと言うてから、借りました。はぁ、それも貸すなら借るほうも借るほう。もう、それはね、もう本当に、そん時にも、私の、一生懸命の思いに、神様がね、まぁ変な表現ですけれども、神様が願うとってござったという感じがしますね。まぁだ、神様から、夜、お知らせを頂くとか、そう言うことも、全然ない時分です。もう、そういう事を、なすことの中にね。いわゆる、神様の間違いなさを分からせて頂いて、ほんなら、一年間後には、今度は、それとは反対のことになったけれども、その時には、もう、降る事だけが有難いのじゃない、照る事も有難いのだと、信じられるところまで、おかげを頂いておったと言う。ね。だから、風たんぬるか信心どんしよったっちゃですね。おかげは頂いてもです。たとえば、神様の、間違いなさといったようなものが分からんと。まぁ、それを、例えば、今、申しますと、ね。どんなに正直者でも、信心が、いわゆる、天地の大恩を知っておるというだけ。天地に対して感謝しよりますと言ったような信心、信心じゃない、そういう生き方では、駄目だという事。ね。
信心して、おかげを受けるという事は、ね。別ものじゃとおっしゃる。その別ものの所のおかげを頂かにゃならんがです。そのおかげを現していくためには、今も、申しますように、詐欺一歩手前のような商売の中にでも、神様は、その様なおかげを下さってある。ね。けれどもね、その焦点と言うか、眼目が他の者と違う。時分の私服を肥やそうといったような、汚い心が、さらさらない。ただ、神様が分かりたいばっかり。その一念なんだ。本当に神様が、いわば、ない命でも、自由を継ぎ足してくださるほどしの力があるか、ないかを確かめる。神様が、商売の上、金銭の上にもお繰り合わせでもです。本当に、お繰り合わせを下さる事が出来るか、出来ないかを確かめる。それには、信心の筋金というものが、ちゃんと通っとらなければ駄目。そして、天の恩を知り、地の恩を知り、いわゆる、天地の心を心としてと言うような信心が分からせて貰うて、ね。なるほど、天地の心と言うものが分かってくる。初めて、天地の大恩が分かってくる。ね。
昨夜の、御理解の中にも、お話しましたように、夕べ、御祈念させていただいとったら、御神願に頂きますのがね。あの、残菊物語と言うお芝居があります。映画なんかにもなっておる。残りの菊と書くですね。あれは、名優と言われた、六代目菊五郎が、旅役者に落ちぶれて、もう、うらぶれ果てた中を、その女房のお徳と言う、元女中をして居った人が、献身的な苦労をしましてね。そして、東京の父親の所に送り返して、いわゆる、あの六代目と言われる、立派な名優にしたと。自分は、梅ノ木を見てはかなく死んでいったというような筋のお芝居なんです。ね。ですから、信心のある者と、ない者と、そういう例えば、一つの、義談的なことであっても、はかなく死んでいったじゃいかんでしょう。これが、もし、金光様のご信心を頂いて、お取次ぎを頂いて、あれがなされておったら、もう、絶対、胸の病気にならなかったであろう、または、その六代目の、いわば、本当の本妻として、いわば、本当に、ハッピーエンドに終わるだろう。そこが違うのです。と言うような話をさせて頂きました。信心のある者とない者の差、そこの違いがはっきりしてくるのだと。ね。だから、本当に、信心で、言うならば、ね。かげのかげの所を頂かせて貰うて、誰も知らんけれども、縁の下の力持ち的な信心。言うなら、自分が、犠牲にならせて頂いて、それを御用をさせて貰うといったような信心。それはね、決して、縁の下の力持ちにもならなければ、犠牲者で終わってしまうという事は、絶対ない。むしろ、その、縁の下の力持ちほど、力を受けれる。ね。自分は、犠牲になっているように思う、その、もっとるほど、お徳を受ける。それが、金光様のご信心なんだ。ね。なるほど、天の恩を聞かなければなりません。地の恩も、なるほど、ね。確かに、地の恩がなからなければ、野菜一本出来んのだという事をです、ね。天の恵みを受けなければ出来ないのだと言うことを、話のうえに聞いただけで、天地の恩が分かったというような分かり方では駄目。ね。本当に、天地の、言うならば、心を心としての信心と言うところまで高められる。ね。そこに、いわゆる、神様の、おかげを現すと言うこと。神様のお徳を現すと言うこと。天地の徳を現すと言うこと。その現すことが出来て、初めて、分からせて頂くのが、私は天地の大恩だと思う。
だからね、なまじっかなね、本当に、何と申しましょうか。あの、ただ、お取次ぎを頂いて、おかげをいただきましたというようなおかげではね。天地の大恩なんか、分かるはずは、絶対ないです。本当に、天地の心を心としてと言うか、天地の心に、一直線に、ぱーっと、繋がるような信心をしなければ駄目です。それを、例えば、言葉は悪い、または、実際に、そげな事を、皆さんが真似をしてはならんけれど。私が、やみ商売をさせておった時分の話を聞いてもらった。ね。その商売の仕方そのものは、本当に、まぁ、商売人の風上にも置けないような商売をしてきておりますけれどもね。その芯がね、神様に、ちゃんと繋がるものがあったと言うこと。ね。
どんなに、律儀な商売をしておってもです、神様に繋がらないような商売で、おかげの頂けるようなはずはありません。もちろん、それがです、いわゆる、本当の商売人には商売人の道がある。だから、その、まともな商売の道をふんまえて、そして、信心させて貰うての商い。それは、もちろん、鬼に金棒です。ね。何と言うても、天地の働きをね、一分一厘間違いのない天地の運行と言うことを申しますね。そういう運行そのものがです。私共の、生活の上にも、一分一厘間違いのない素晴らしいタイミングの中にです。おかげを受けて、初めて、なるほど、神様じゃなという事が分かる。なるほど、天地の心を心としてと言う信心すりゃ、このように間違いのないおかげを受けられるんだという、確かな証拠を現していくという事。ね。そこから、天地の大恩であり、御恩徳であり、ね。いわゆる、そのご恩恵に対しまつる所のおかげを頂くの様な事になります。
まぁ、今日の、天の恩を知りて、地の恩を知らぬことという事はです。大体は、天の恩は説いてきても、地の恩は説かなかった。説かんどころか、いわば、忌み出る、穢れたものとして、例えば、仏教なんか説いていますからね、大地と言うものは。ね。そういう、例えば、中にあって、教祖ご自身の信心そのものが、ね。それこそ、土から生まれたようなご信心であるところからです。大地の御恩徳と言うものが、とりわけ、そこに、金光教の信心に、大きく出てきたわけです。ね。いわゆる、天の恩を知り、地の恩も体得させて貰うての信心生活、ね。そういう、おかげが受けられる、お互いが、道にあるのです。ただね、神様に、何かそこに、一本、ちゃんと、こう繋がるような、通うようなね、信心を、先ず、だから、いただかにゃいけません。永年、信心して、おかげを受けておりますと言うことじゃいかん。自分の声が、神様に通うんだなぁと言うようなものをですね。それぞれ、その、専売特許と思わせるようなものを、一つ、持たなきゃいけません。ね。
例えば、あの久留米の石井清さんなんかは、お参りをしてきません。ね。月のうちに、二回が、まぁせいぜいでしょう。家内が、月次祭たんべんに参ってくるぐらいなこと。ね。それでもね、絶対、金光様のご信心を頂いて、天地に繋がるようなものが、ちゃんと通っとるでしょうが。それを、まぁ、どういう風に言うかと言うと、腹かいちゃ馬鹿らしかち言うとる。これを、絶対のものとしているわけです。もう、どげん、商売で損しようが、馬鹿にされようが、辱めを受けようがですね。腹かいちゃ馬鹿らしかと言うことを知ってるです。それこそ、天地の芯に、ぴしゃっと、繋がるものがあるわけです。信心しよったっちゃ、やっぱり、腹かくでしょう。信心しよったっちゃ、すぐ、その不平不足を言うでしょう。不平不足を言うたり、腹かいたりしちゃ、もう馬鹿らしいという、天地の芯に繋がる、そこに、細々とはしとってもです。それが、繋がるところに、清さんのおかげがあると、私は思うです。ね。だから、こうして、御教えを頂いていくうちにです。これは、私の専売特許と言うような信心をね、頂いて、そこから、おかげを現していく。そのおかげが、段々、大きくなっていく。それが、天地ほどしの、おかげの受けもの、言うなら、天地の心を心としてといったような信心が出来て、信心修行に励まして頂くというところからです。ね。いわゆる、大きなおかげが受けられる。ね。オールマイティと言うような言葉を頂く。
私共はですね、そういう意味において、何かにおいてです、全能的なおかげをいただかにゃいかん。もう、金のことだけなら、先生、私に言うて下さいち言うぐらいなおかげを頂かなければ、ね。すべてのことと言うわけにはいくまいからです。ね。これだけは、私が受け持ちましたと言うようなです。そこに、一本、ちゃんと繋がるものが出来れる信心を、それぞれに頂いてもらいたい。そこから、必ず、天の恩も、地の恩も分からせて頂くことが出来る。初めて、天地の大恩に報い祭る信心が、そこから出来る。ね。天の恩を知りて、地の恩を知らぬからと。天の恩すらが、分かっておらん。ね。と言うのが、普通の事ではないでしょうかね。それを、私共はね、いわゆる、天地金乃神とこう仰る、金の所、ね。金と言うところは、おかげという風に、今日、私は聞いてもらいました。ね。そのおかげを頂いて、天地金という事になるのです。天地金乃神の大恩を知るためには、先ず、金を頂かなきゃいけません。おかげを頂かなければならない。それにはね、どうしても、信心が一本、ちゃんと天地に繋がるような、一つの、ね。筋金が入らなければいけないということを聞いて頂いたね。どうぞ。